滑稽噺
最近わからないことを「わからない」という事に抵抗がある。誰も私の「わからない事をわからないという情報を求めてないことがわかったから。
でもそのわからなさは自分でどうしようもないから、適当にそれっぽい嘘か本当かもわからない事を述べてその場を切り抜けてしまう。
流れで自分の意見として述べてしまう。『こう言ったらよさそう』『こう言わないとのちに面倒になりそう』を繰り返して今の自分がいる。
本来自分が持ってた意思とか信念は呆けてしまって今あるものでさえ持てなくなってこぼれ落ちるような感覚にある。
そこに残るものは何なんやろう。自分を無くしてまで残したかった物って何なんやろう。
こうなってしまった経緯はわかる。『好きなものを好き』『嫌いなものを嫌い』こういう普通の人なら簡単に言える事を言えなくなったから。
言えなくなると初めのうちは不満だったり鬱憤が溜まる。それが定期的に爆発する事によって、『こういう事が嫌やったんや』で嫌いなものが認識できる。
この時点で嫌なものの認識の仕方に歪みがあるよなぁとはわかってた。
最近はそれを越して、晴らす事さえしなくなったら判断ができなくなった。何が嫌かもうわからない。
道徳の範疇を超える事(犯罪とか明らかに心身に害があるもの)とかは、道徳の範疇を認識してるから嫌と判断できる。
だからつまり自分の気持ちでは無い。そんな風に何か他人に決められたルールに則ってしか意見する事ができない。
そんな自分の『嫌な気持ち』が理解できない人に、人の嫌な気持ちになる事が理解できる筈もないので、人に対しては【絶対に道徳の範疇を超える事はしない】+【嫌な気持ちになり得るかもしれない行動を慎む】事で今日まで人間として営んできた。
大体の人は害のある人間を真面と言うのを嫌がる。
害がない=真面にしたがる。
だから私は世間一般的にみると真面の分類になる。だから私は他人から見たらとても真面でもはや聖母のように優しく見えるって人もいると思う。絶対嫌な事しないし。
でも実はそれと同時にいい事もできない。良いと悪いの区別ができないから、それなら安全を取ってやらないを選んでしまう。とりあえず選ばないという選択をする。
本来の真面であれば選ばないは選ばない。
いい事をそれが他人からどう思われようと自分の意思で即座に判断してできる人が本来真面とされる人間。
ここまでちゃんとわかってるのに。
ここまで自分の力で文章にして説明もできるのに!自分の気持ちさえわかればこんなややこしい事にもならなかったのに!後はこのおかしいところを直すことができたら更に真面になれるのに!
って書いたところでさっきの、自分を無くしてまで手に入れたかったものが分かった気がする。
【真面さ】なんやろうな。
真面さを捨てて真面さを得ようとしてたんや…
手に残ってるのは偽物の真面さか…
なんと滑稽…